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〈JUN’s letter〉「点滴は悪」という思い込み。終末期医療で僕がかつての自説を撤回した理由

「点滴はしない」が正解だと思っていた
ある講演で、「点滴をやめて大好きなものを食べて嬉しそうな患者さん」の映像が流れ、会場が感動に包まれていました。しかし、僕は素直に頷くことができませんでした。
実は、僕もかつては徹底した「点滴忌避派」でした。10年前には『点滴はもういらない』というタイトルの本を共著したほどです。特別養護老人ホームでの自然な看取りの実践や、欧米では終末期の点滴が虐待とみなされる事実を学び、点滴をしないことで患者さんは苦痛なく、枯れた植物のように穏やかな最期を迎えられると信じて実践してきました。

 

僕を変えた、ある看護師の言葉
しかし、臨床経験を重ねる中で、僕の考えは少しずつ変わってきました。転機となったのは、ある施設の看護師さんの言葉でした。「先生の方針は理解しています。でも、この人には点滴をしていただけないでしょうか。その方が楽に過ごせる気がするんです」。
患者さんは90代の悪性リンパ腫の女性。食事も摂れず、予後は「日の単位」と思われていました。提案に従い、1日500mlだけの補液を行いました。すると、彼女は穏やかさを取り戻し、予想に反してその後3週間、家族やお孫さんと賑やかな時間を過ごすことができたのです。

 

「枯れる」べきタイミングは誰が決めるのか
点滴をしなければ、食べられない人は枯れます。しかし、それが本当にそのタイミングなのか、その見極めは極めて困難です。脱水状態は唾液の分泌を減らし、嚥下機能や食欲、意識レベルを低下させます。適切な水分・栄養補給は、むしろ食機能を回復させる治療手段にもなり得るのです。
最近、「食べられなくなったら看取り」と、点滴や経管栄養を中止してラフに判断してしまう風潮があるように感じます。かつての僕なら拍手喝采していたかもしれませんが、今は違います。

 

「決めない」ことを決める
終末期の点滴は「いい」のか「悪い」のか。こうした議論は不毛です。大切なのは、医学的なエビデンスや「点滴はしない」という正義を押し付けることではありません。点滴をするかしないかではなく、本人にとって「その時点での最善」は何なのか。迷い、悩みながら、その人だけの答えを丁寧に考え続けることこそが、僕たち医療者に求められているのだと思います。

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