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「延命」という言葉の暴力性!? 終末期医療費の“誤解”と、私たちが向き合うべき命の価値

■JUN’s letter■

 

「延命」のために闘ったわけではない
クリスマスイブの病院で、ある70代男性の退院に向けた話し合いがありました。 感染性心内膜炎の手術後に広範な脳梗塞を発症、さらに血液疾患による合併症。半年間の入院を経て、人工呼吸器、経管栄養、カテーテル、輸血など、多くの医療処置を抱えながらも「なんとか家に帰りたい」という願いを実現するための場でした。

病院の先生からの診療情報提供書には、こう書かれていました。「なんとか延命を図っております」。 先生の伝えたい意図は理解できます。しかし、私はこの言葉に強い違和感を覚えました。

彼は決して、ただ死を先送りにする「延命」のために人工呼吸器をつけたわけではありません。回復し、社会復帰することを目指して闘ったのです。結果として離脱はできませんでしたが、それでも家族と共に自宅で「生き続けること」を選択したのです。

終末期医療費は「無駄使い」なのか
よく「終末期医療にお金がかかりすぎている」という議論があります。亡くなる前の1年間に高額な医療費がかかることを問題視する声です。 しかし、彼のように「元気に社会復帰しようとして最大限の治療を行ったが、結果としてうまくいかなかった」ケースもここに含まれます。これを最初から「終末期医療費」としてカウントし、あたかも無駄であったかのように論じるのは、明らかなミスリードではないでしょうか。

ここを抑制してしまえば、本来助かるはずの命まで助からなくなってしまいます。

 

第三者が「命の価値」を値踏みする危うさ
医療の目的は、本来すべて「生命予後の改善」です。それをあえて「延命」と呼ぶとき、そこには「そこから先の命には延ばすべき価値がない」というニュアンスが含まれてはいないでしょうか。

その命に価値があるかどうかを、第三者がジャッジすべきではありません。 回復の可能性や予後の長さで命を選別することを許容すれば、その基準はいずれ経済力や社会的な有用性にまで広がっていくでしょう。それは優生思想そのものです。

 

「助かる」と「助からない」の間で
医療技術の進歩は、かつてなら助からなかった命を救うと同時に、「完治はしないが、医療とともに生き続ける」という新しい時間を生み出しました。 それは時として苦悩を伴いますが、その選択を「延命」という言葉で片付けるのではなく、その人にとっての「最善」は何なのかを常に考え続けることこそが、私たちに求められているのだと思います。

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