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〈JUN’s letter〉【人生会議のパラドックス】「生かされているだけ」ーー90歳女性の最期の願いはなぜシステムに阻まれたのか
僕がいまでも忘れられない一人の女性は、90歳を超え、子供とも距離を置いて集合住宅で一人暮らしをしていました。古さの中にも生活の匂いに囲まれた快適な空間で、認知症はあったものの、訪問のたびに愛犬「太郎」の思い出を語り、診療が終わるといつも玄関まで歩いて見送りをしてくれました。
しかし、約1年前の室内での転倒による肋骨骨折が人生を大きく変えてしまいました。痛みでベッドから動けなくなり、専門職の訪問にもドアの鍵を開けられなくなったため、譫妄リスクを考慮して痛みが落ち着くまでのショートステイが手配されました。
このショートステイは、誰の判断か不明ながらそのままロングステイとなってしまいました。
施設での生活は、彼女の望むものではありませんでした。彼女は認知症でありながらも、訪問のたびに、ストレートにその状況への感情を表現してくれました。
「ここでは、ただ生かされてるだけ」。「私をいくつだと思ってる? 大々先輩よ。簡単には騙されない」。そして、「やっぱりうちにほうがいいですよね。何にもないけど、やっぱりうちのほうが」と訴えました。
彼女の苦悩は深く、「もう人間やめたい」「もう、生きててもしょうがないし、もう面白くないし」、「なんにも楽しくない。面白くもおかしくもない。ここには楽しい人もいらっしゃらない。もう全部終わった」 と語っています。
それでも診療を終えると、彼女は深々と頭を下げ、満面の笑みで施設のスタッフに手を引かれてリビングに戻る姿を見せていました。僕は、カルテのS欄に記録されたこれらの言葉が、単なる「ぼけ老人の戯言」ではないと問いかけます。
その後、彼女は同系列のグループホームに入居しましたが、そこでも転倒を繰り返しました。そして今年の9月、右大腿骨頸部骨折で入院し、手術は順調に終了したにもかかわらず、尿検査で耐性菌が検出されたことを理由にホームは受け入れを拒否しました。その結果、彼女の望まぬ形で療養型への転院が調整されることになったのです。
僕は、彼女の人生の最終楽章が、転倒事故を起こした彼女の責任ではなく、「その後の旋律」によって望まぬ形で進んだことに無力感を覚えています。
彼女は、どんな生き方をしたいかというACP(人生会議)を行って周囲に伝えていましたが、周囲はそれを尊重しなかったのです。自宅での生活の継続という選択肢はあったはずなのに、自宅を処分させ施設に収容するなら、施設で最期までケアをする「覚悟を持つべきではないのか」と強く疑問を呈しています。
僕は、ACP、ACPと大合唱する前に、誰のための、何のためのACPなのか、じっくり考えるべきだと思います。意思決定支援のプロセスは、「意識形成支援」から「意識表出支援」、そして「意識実現支援」までつながって初めて完結するものです。
認知症の人の意思決定支援の難しさは、意思形成や表出だけでなく、意思決定した後の関わりのほうがよっぽど重要なのです。もし、決定した願いを一方的に踏みにじるような残酷なことをするなら、最初から希望を持たせないほうがよっぽどましではないか、と僕は現状のシステムの硬直性に強い批判を向けています。
このケースは、在宅での選択肢が失われ、施設が看取りの覚悟を持たない時、高齢者、特に認知症の方の尊厳がどのように簡単にシステムや手続きによって踏みにじられてしまうのか、という深刻な問題を示唆しています。
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この事例は、まるで「決められたレールの上を走るトロッコ問題」のようです。本人が行きたい方向(自宅での生活)を明確に示しているにもかかわらず、転倒や感染症といった突発的なトラブル(レールの切り替え)が発生した際、システム(施設や制度)が安全やリスク回避を最優先し、本人の意思(理想とする行き先)を無視して、自動的に最も管理しやすいゴール(療養型病院)へと進路を固定してしまう。個人の尊厳が、システムの合理性の前にいかに簡単に無力化されるかを示しています。