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〈在宅医療の究み〉「〇〇家流で」 ーーその人の流儀を支える / 田鎖志瑞(悠翔会在宅クリニック新宿、院長)
この仕事をしていると、避けて通れないことがある。「看取り」だ。
経口摂取量が減ってきた、1日の中で寝て過ごす時間が長くなってきた、呼吸がときどき不規則になる――そんな話が出るようになると、職業柄、そろそろ看取りを覚悟して家族と向き合っていかないといけないなあと腹を括り始める。
看取りの形は千差万別です。本当にそれぞれの形があると思う。一人ひとり、顔や性格が違うように、同じ年齢や疾患でも最期は「たった一人のかけがえのないその人」であり、「その人が生きてきた生き様」「生きる上で大切にしてきた矜持」がほとばしり出る瞬間であると思う。そのような奇跡的な瞬間に立ち会わせていただくこと、そこに至るまでのさまざまな葛藤や苦労に少しでも寄り添わせていただけること、在宅医療という仕事はまさにその特権を与えられている稀有な仕事であると年々思うようになってきた。
先日、自宅で看取った〇〇さんもまさにそうだった。ご自身は元ドクターで長年開業医として地域医療にご尽力してこられた方だ。初診のときから、「今までやりたいことをやってきた」「とてもいい人生だった」「最期まで自分たちで」「病院のお世話にならないように」と、ご自分の人生観を貫かれていらっしゃった。それは最後の最後まで全くぶれなかった。
最後まで奥様手作りの料理、飲み物、そして手作りの衣類。奥様も大変だったと思うが、最後までヘルパーさんを頼まずにご自身で介護された。点滴などの医療は望まず、自然な形で最後まで「衣食住」「排泄」という人間の生活の原点に「〇〇家流」のこだわりを優先された。
かかわってくれた訪問看護、ケアマネとの連携も、最後は「〇〇家流で」が合言葉になった。
「〇〇家流で」
これはすべての患家に当てはまるのではないかと思えてくる。少しでもその人らしさを引き出すために、ときには何も手を加えずに生き様を見守ることも必要なのかもしれない。
最期に、「うちのやり方を見守ってくださって本当に心強かった」とのお言葉を奥様からいただいた。在宅医冥利に尽きた。医療処置が少なかったため十分にお手伝いすることができなかったような気もしていた。最期まで自分の生き方を全うされ、生き様を貫かれたお姿にただただ感銘を受けた。自分たちには不要だと、医療を削ぎ落していく〇〇家流の在宅療養から、実は引き算することが自分たちらしくあることの価値を付加することもあるのだ、ということを学んだような気がした。
「実るほど首を垂れる稲穂かな」
好きな格言だ。いつも控え目で謙虚な物言いに心癒された〇〇さんの診療だった。しかしそこには、自分の人生は自分で決めるという揺るぎない信念と覚悟が静かにしなやかに流れていた。
人生の最期を彩るのは、実は医療ではなく価値観に基づいた〇〇家流のケアなのだ、と静かに貫かれた。ターミナル期の愁訴に際しても、気色ばむことなく自然体で吐露され、最期まで威厳と品格を保たれた。同じ職業に携わる者として、頭が下がる思いだった。最期までご一緒させていただいたご縁に感謝である。
首を垂れる稲穂の神々しさに〇〇さんを重ねながら、しばらく思いを馳せる日が続いた。
※本記事は、2022年6月9日に「診療満足度調査レポート」サイトに掲載したコラムをもとに、内容を一部加筆・再編集してお届けしました。
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